今、なぜ神楽なのか?

「子ども神楽」は集落の「かすがい」

この町には、今から、30〜40年前は子どもがたくさんいました。野にも山にも子供が溢れ、あちこちから子供の声が響いていました。そして、正月になると、この集落では、各家が順番に仮屋(かりや)の当番にあたり、5つの組で「子ども神楽」が行われていました。正月三が日はあちこちから神楽太鼓が響き、隣の組に負けじと、張り合って神楽を舞っていました。大人たちも、集まって衣装を作ったり、ワラを売って花代を作り、子供達を応援しました。

そして正月には、「子ども神楽」を見て子供の成長を喜び、また、集落の今年の安泰を感じとり、正月を楽しみました。都会に出ていった人も、年1度のこの仮屋行事の「子ども神楽」を楽しみに帰ってきました。地元で育った大人は、誰もが自分が子供のころ神楽を舞った想い出があり、昔、一緒に踊った友と酒を酌み交わし親交を深めていました。 

その頃、子供の数が多いにもかかわらず、住民は集落の家族構成もよく知っていて、子供の顔と名前もだいたい知っていました。道で会っても、自然とあいさつも交わさました。人々の団結も固く、自然と助け合いや手間返しも行われていました。

神楽が途切れて、正月に都会から帰った人は、決まって昔の「子ども神楽」を懐かしんでいました。正月は、実家でテレビを見てゴロゴロ過ごして、同級生と運良く連絡が取れると町の酒場に行き、3ヶ日が終わると寂しく都会に帰って行きました。そして、だんだん故郷から足が遠のき、正月に帰ってこなくなるのでした。「子ども神楽」は、都会に出て行った人にとって心の故郷であり、地元の者にとっても地域の「かすがい」だったのかも知れません。


子ども神楽で町を活性化

住民、子供同士の交流

神楽復活の取組みが始まった初期の頃、大人がまず戸惑ったのは、子供の名前がなかなか出てこなかったことでした。特に父親は、「そこの子、○○さんの2番目の子、・・・」と言った具合。あげくの果てに名前を間違えて呼んでそっぽを向かれる始末。小学生が10人しか居ないのに、意外に名前すら知らなかったのです。初めて見る子は、どこの子か苗字もでてこない。母親は、PTAなどで顔を合わすことも多いのか、お互いの家族構成などは、だいたいわかっているようでしたが、同級以外の子は名前を知らない子もいました。都会では、3軒隣の人と全く話もしたことがない現象はよくあること、この田舎にも知らない間にそういった現象が起こりつつあったのでしょうか? 町民運動会でも「あの人どこの嫁さん・・・」「あの子どこの子・・・」といった会話もよく聞きます。ふだん、若者は遠くの職場に出かけ、子供同士で、外で遊ぶ機会が少なくなった結果なのでしょうか。

子どものけんかが始まった!

神楽を始めて最初は、おとなしかった子供たちでしたが、何回か練習を重ねるうちに、だんだんにぎやかになりました。気がつくと、休憩時間に走りまわって追いかけっこをしていました。練習中にも大きな声ではしゃぎ出しました。大人も、「○○君!静かに!」と、自然と名前が出てきました。
そして、子供同士のけんかが始まった。原因は、道具の取り合い。擦り傷を負った子が泣いている。昔、自分が子供の頃は、しょっちゅう見られた光景です。大人が昔の父親のように、つい他人の子だと忘れて大声で叱っていました。神楽で子どもが生き生きしてきたようでした。

子供達が笑顔であいさつをするようになった!

朝、子供達の登校にすれ違いました。みんなニコニコして大声であいさつをして来ます。こちらも笑顔であいさつを返します。「今度の日曜日、神楽の練習で逢おうや!」
神楽をやる前は、ただお互いに形式的なあいさつをしていたことに気付きました。この町に、また少し愛着が生まれてきました。この子たちが大人になってもこの町に愛着を持ち続けてほしいです。